保護司の歴史
令和6年10月、「持続可能な保護司制度の確立に向けた検討会」の最終報告書が法相に提出されました。検討会では、高齢化が進みなり手不足が叫ばれる保護司制度について、報酬制を導入するか否かについてが議題のひとつに上がりました。さまざまな意見が飛び交いしましたが、最終的には、「保護司の無償性は、制度発足以来、利他の精神や人間愛に基づく地域社会における自発的な善意を象徴するものであり、なお堅持していくべき価値がある」ことから、報酬制の導入は見送られることとなりました。
このように、(身分上は国家公務員とはいえ実質的に)民間の無給ボランティアである保護司が更生保護の一翼を担うという保護司制度は、世界的にみても類を見ないといいます。
そもそも日本における更生保護は、多くの民間篤志家による免囚保護事業に源を発するとされています。昭和初期には司法保護委員が全国に置かれるようになり、昭和14年には司法保護事業法によって司法保護委員が法制化されました。当時の司法保護のうち、収容保護と一時保護については司法保護団体に、観察保護については司法保護委員に当たらせることとしましたが、実施主体はいずれも民間の団体と篤志家であったといいます。その後、昭和25年に保護司法が制定・施行され、司法保護委員は現在の名称である「保護司」へと改称されました。
このように、国の制度の中に取り込まれ、その後も保護司の職務の明確化や保護司組織の法定化などを目的とした保護司法の改正(平成10年)が行われる中でも、地域に根差した民間のボランティアである保護司と国家公務員である保護観察官が協働して保護観察の実施に当たるという官民共同体制は堅持され、発展してきました。近年では、こうした保護司としての活動を「HOGOSHI」として、世界へアピールしていこうという活動も積極的に行われています。地域住民のひとりとして、人と人との繋がりを大切にすること。そうして、明るい社会を目指すこと。それこそが、保護司制度の根幹であるといえるでしょう。